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証言をして下さった方の紹介:長年にわたって広島市で、市議会議員を努められたS氏。昭和4年5月生まれですから、放射線被曝されたのは、16歳。私がお目にかかってから20年余になりますが、被曝の性か体調を崩されたことがままありました。名前は本人の希望で、伏せさせていただきます。(平成25年故人となられました)
下記の証言は、平成3年7月、平和市民集会で話された内容をまとめたものです。
私は16歳の少年の時に被爆を体験しました。実は、あの暑い熱い体験をお話するのは、今日が初めてです。一昨日、一日がかりで被爆当時たどったと思われる道を歩いて見ました。もう一度、あの太陽光線のもとに自分をさらして見なければ、あの生々しい体験はよみがえってこないと考えたからです。このため、今、私は体中が火ぶくれのようになってヒリヒリしています。
原爆投下の1945年8月6日、徴用で市外に出ていた私は直接の被爆を免れました。翌朝、急ぎ徒歩で自宅近くに帰り着きました。焼け焦げた死体は筋のような目があるだけで、顔の判別がつきません。ところが、真っ黒い土の人形のような人間の死体がごろごろ転がっている中に、母親を見つけました。大きなたいまつのように燃えくすぶっている電柱の下に寝転がっていました。
私は突かれる思いで、声をかけました。「ああ、おかあちゃん、生きておったか」。その時、うっすらと母親の目が開きました。これほど、うれしかったことは生涯一度もありません。
母親は当時38歳です。女ですから見苦しい格好はしたくなかったのでしょう。血まみれの顔を何度も近くの水槽で洗ったそうです。しかし、姉さんかぶりを取って母親の頭を見て驚きました。頭の肉が、3ヶ所もはち割れたようになっていました。一番深い傷口は、一部、頭がい骨が見えています。
とても本人にはそんなことを告げられません。私は「大事にしなければ・・」と思って、たまたま出会った軍隊の治療班に赤チンを塗ってもらいました。そこへトラックが一台通りかかり、母親を市外の小学校に運んでくれました。教室、講堂、校庭までが被爆者で埋め尽くされています。
一夜明けると、教室が静かです。前夜、あれほどうめいたり、とめどもなくしゃべっていた中学生、主婦、女子学生、職人、やくざなど、教室にいた80人ばかりの被爆者が、母のほか数人を除きみんな死んでいました。
このまま、ここに置いてはおけない。しかし、何の情報もありません。母親に「必ず帰ってくるから」と言い置いて、被爆の3日前に招集で市内にいた兄を捜しに出かけました。全く偶然に出会った近所の人が「実家近くの川のそばで、血だらけになっていたよ。間に合わないかもしれない」と教えてくれました。急いで駆けつけると、兄はいました。言われた通りひん死の状態。何と30数ヶ所の裂傷でした。
トラックを見つけました。しかし、兄は痛がって乗ろうとしません。そして、冒頭に申し上げたように真夏の日差しのなか、たった1キロほどの都心の路を丸一日掛かりで歩きました。「熱い」と一口に言いますが、これほど「熱い」思いをしたことは後にも先にもありません。一面焼けて何も無い。全く日陰というものがない。練兵場の盛り土の、わずか30センチばかりの日陰に兄を休ませたことを覚えています。
また、軍隊の治療班に立ち寄りました。職業、住所を聞かれ、後は死ぬだけの兄に対し「軍人ではないか。どこへいくのか。勝手な行動は許されんぞ」と言った軍医の非人間性に、がく然としたこともよく覚えています。
母は2週間後に、全身に斑点が出て、死にました。
2度とこういう悲しい思いを繰り返してはなりません。幸い、私は市議会議員となり、平和の砦を築くために、闘える身にしていただいたことを感謝しています。また新たな思いで平和のために頑張ってまいります。
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証言をして下さった方の紹介:MFさんは現在、広島市安佐南区に在住。大正11年生まれで、広島生まれの広島育ち。子どもの頃から健康には恵まれていたが、被爆以来、種々の病に冒され苦労した。信仰に支えられたバイタリティーでそれらを乗り越えて来られましたが、先年故人となられました。
私の人生の中で終生忘れる事の出来ないのは、原爆の洗礼を受けたことです。あの日、運命の閃光は、一瞬にして広島を廃虚と化したのです。当時、私は23歳の若さで、しかも妊娠九ヶ月の身重でした.。爆心地から1.5キロの楠木町1丁目の自宅で、トイレを済ませモンペの紐を結んでいる時でした。壁土もぶれになり外に出てみると、障子のガラスは欠けらすらなく、庭に干していた布団は、燃え上がっていました。爆風と閃光はすざましいものでした。幸い倉庫にいた主人も無傷で、九死に一生を得ました。同じ町内の奥さんが倒れた家の下敷きになり、手だけを出して助けを呼ばれていた声が、今も耳に残っています。ご主人は、迫り来る炎になす術もなく、泣きながらその場を離れていかれました。
一時、避難した大芝公園での情景も、目に焼き付いています。逃げてくる人々の着物が、ボロ切れのように焼け下がっているのです。よく見ると、それは布ではなく、皮膚が垂れ下がっていたのです。
母親が乳飲み児に乳首を含ませているのですが、その児は息が絶えていました。隣では幼児が必死にとりすがている母が亡くなっていました。太田川の次々と飛び込む人々も目にしました。地獄絵さながらのの惨状に、眼を開けることも出来ない苦しみにおそわれました。あの光景はどんなにむごい形容詞を並べても表現できません。恐ろしくなて、主人の実家に逃げ延びました。そこでも、被爆した方がおられ、火傷の傷に湧くウジを箸で取っておられたましたが、帰らぬ人となりました。しばらくして、母と2人の妹も原爆の犠牲になっていたことを知りました。この時の悲しみは、今も忘れることはできません。
戦争は終わっても、戦禍の苦しみが終わることはありません。胎内被爆児の長男はひ弱で下痢ばかりしていました。医者から「学校に上がるまで生きられればよいが…」と言われたほどです。放射線を浴びた被爆後遺症には、親子ともども苦しみました。今でもその苦悩や不安がつきまとっています。
悲観主義では生きられません。親子ともども原爆被害で苦しむ宿業を、平和活動への使命にかえていこうと決意し、頑張っています。
被爆から52年の歳月が流れましたが、広島の地の底に原爆犠牲者の苦しみや憤りが流れ続けていることを忘れてはなりません。二度と過ちを繰り返してはなりません。被爆から蘇生した広島が平和の電源地となって、平和の波を世界にうねらせていく使命を担っていると思います。私もその一翼を担っていく決意をしています。